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僕はいつかMより五六歩あとに歩いていた

「おい、M!」モンクレール ダウン
 僕はいつかMより五六歩あとに歩いていた。
「何だ?」
「僕等ももう東京へ引き上げようか?」
「うん、引き上げるのも悪くはないな。」
 それからMは気軽そうにティッペラリイの口笛を吹きはじめた。
やがて、眠そうな声で、青侍が云った。
「では、御免を蒙って、一つ御話し申しましょうか。また、いつもの昔話でございますが。」
 こう前置きをして、陶器師(すえものつくり)の翁は、徐(おもむろ)に話し出した。日の長い短いも知らない人でなくては、話せないような、悠長な口ぶりで話し出したのである。
「もうかれこれ三四十年前になりましょう。あの女がまだ娘の時分に、この清水(きよみず)の観音様へ、願(がん)をかけた事がございました。どうぞ一生安楽に暮せますようにと申しましてな。何しろ、その時分は、あの女もたった一人のおふくろに死別(しにわか)れた後で、それこそ日々(にちにち)の暮しにも差支えるような身の上でございましたから、そう云う願(がん)をかけたのも、満更(まんざら)無理はございません。
それから江口の頭は批評家よりも、やはり創作家に出来上っている。議論をしても、論理よりは直観で押して行く方だ。だから江口の批評は、時によると脱線する事がないでもない。が、それは大抵受取った感銘へ論理の裏打ちをする時に、脱線するのだ。感銘そのものの誤は滅多にはない。「技巧などは修辞学者にも分る。作の力、生命を掴むものが本当の批評家である。」と云う説があるが、それはほんとうらしい嘘だ。作の力、生命などと云うものは素人にもわかる。だからトルストイやドストエフスキイの翻訳が売れるのだ。ほんとうの批評家にしか分らなければ、どこの新劇団でもストリンドベルクやイブセンをやりはしない。作の力、生命を掴むばかりでなく、技巧と内容との微妙な関係に一隻眼を有するものが、始めてほんとうの批評家になれるのだ。江口の批評家としての強味は、この微妙な関係を直覚出来る点に存していると思う。モンクレール Mayaこれは何でもない事のようだが、存外今の批評家に欠乏している強味なのだ。
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by raybansunglasses1 | 2012-10-08 09:34